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板橋・伝承館で三代目若松若太夫独演会 先代を語る生誕百年記念の講話も

1998(平成10)年、二代目若松若太夫(左)の最後の舞台写真

1998(平成10)年、二代目若松若太夫(左)の最後の舞台写真

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 「東京都文化財ウィーク2019」企画事業「第30回 三代目若松若太夫 説経節独演会」が11月16日、板橋区立郷土芸能伝承館(板橋区徳丸6)で開かれる。

二代目、三代目と若太夫を支える青木さんは演目の前口上を行う

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 同公演は「二代目若松若太夫生誕百年記念」と銘打たれ、説経節の演目とは別に、三代目の師で後に初代の名跡「武蔵大掾(だいじょう)」を襲名した二代目若松若太夫、故・松崎寛(ゆたか)さんをしのぶ「二代目若松若太夫を語る」と題した講演を行う。

 三代目によれば、初代若松若太夫の六男として1919(大正8)年に生まれた松崎さんは、終戦前の1947(昭和22)年に二代目を襲名。その後結婚して子どもにも恵まれたが、戦後に大衆娯楽が復活して説経節が勢いを失っていく中、病気を患って盲目になったことと、妻が他界したことなども重なって酒浸りの生活となり、アルコール中毒で入退院を繰り返して説経節の活動を長く行っていなかった時期があったという。

 二代目の転機となったのは板橋区の都営住宅で暮らしていた1974(昭和49)年。板橋区福祉事務所のホームヘルパーだった青木久子さんが訪問介護に訪れ、説教節の太夫だった話を打ち明けられた青木さんは二代目の健康管理や生活習慣の改善に尽力したという。1980(昭和55)年にNHKのラジオ番組に出演して説経節を披露すると、朝日新聞が取材に訪れて「二代目若松若太夫復活」を報じ、これがきっかけとなって講演依頼が殺到したそうで、活動を再開するとテイチクレコード(当時)から二代目の説経節作品を収録したLPレコードやカセットテープが発売されるほどの反響となった。1982(昭和57)年には東京都無形文化財と板橋区無形文化財指定を受け、さらに1988(昭和63)年度の芸術祭賞優秀賞を受賞するまでに至ったエピソードなどは、板橋区教育委員会刊行の書籍「説経節と若松若太夫」などにもまとめられている。

 三代目が先代に入門したのは1989(平成元)年5月。同年10月31日に郷土芸能伝承館がオープンし、翌年から同館で2カ月に1回「二代目若松若太夫説経浄瑠璃鑑賞会」が開かれるようになり、駆け出しながら三代目も2カ月に1回は舞台に上がり、同年7月の会で「若松峯太夫」を襲名。二代目は同年にポーラ伝統文化財団から「第10回伝統ポーラ特賞」を受賞。1998(平成10)年3月に三代目が「若松若太夫」の名跡を襲名した翌年、二代目は亡くなっている。2000(平成12)年、二代目から引き継ぐ形で三代目が都指定無形文化財(芸能)保持者と板橋区登録無形文化財説経浄瑠璃保持者の認定を受けて現在に至っている。

 今回三代目が披露する演目は、「小栗判官」最初の説話となる「御菩薩池段(みぞろがいけのだん)」と、「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」から「狐葛の葉子別段(きつねくずのはこわかれのだん)」の2作品。

 「御菩薩(みぞろがいけ)池」は古くからの心霊スポットとしても知られる京都市北区に現存する「深泥池(みどろがいけ)」の大蛇伝説とゆかりが深く、中世の時代に小栗が池の大蛇の化身と契りを交わしてしまう一節。「狐葛の葉子別段」は、伝説の陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明の母親が狐であったという古い説話で「信太妻(しのだづま)」の名称で民俗学研究の対象にもなった物語。

 「今回の『御菩薩池』は、6月の独演会でも取り組んだ、初代の師匠筋に当たる薩摩若太夫が江戸末期に使っていた『小栗判官』の台本から起こした初演。『狐葛の葉』は坂東冨起子さんと今年3度共演させていただいたが、冨起子さんは二代目の生前にこの演目をご覧になって涙が止まらず、いつかこれやりたいと考えていたそうで先日11月6日にその舞台が実現した縁の深い作品。今回の独演会は、若松若太夫の歴史をたどるような内容になった」と三代目。

 12時30分開場、13時開演。入場無料。定員は90人。

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